エリーゼのために
帰り際、ふと通りがかった練習室。
今日は予約を入れてない。土浦は自室のグランドピアノで練習するつもりだった。
その足を音楽科棟へと伸ばしたのは、ほんの気まぐれ。
ドアをきちんと閉め忘れたのか、そこから微かに音が漏れ出ている。
なんのための防音なのか、土浦は肩を少しすくめた。
そこから聞こえてきた、懐かしい旋律。
それはたどたどしくも危なっかしいもので、誰が弾いているのか土浦にはわかってしまった。
思わず口元に浮かぶ笑み。とりあえずドアを軽くノックすると、答えを待たずそっと中に入った。
「んー、なんか違うなあ」
いつも手にしているヴァイオリンではなく、彼女が弾いてるのはピアノ。
土浦とともに音楽科への転科を決めた彼女は、最近ピアノの練習もはじめているのだった。
決してうまいとは言えないが、彼女の紡ぐ旋律は土浦の耳に心地よく馴染んだ。
「…なにが違うんだろ?」
ピアノに向かってひとりごと。まだ彼女は土浦には気付いてない。
楽譜を指で追いながら、しきりに首を捻っている。
「香穂、どうしたんだ?」
とりあえず声をかけて、後ろからその楽譜を覗き込む。
「つ、つ、土浦君!」
本当に気付いてなかったみたいで、香穂の声が裏返った。
「もうっ、ノックくらい、してよね。びっくりしたじゃない〜」
慌てて楽譜を閉じると、隠すようにそれを胸元へと引き寄せる。
「ノックしたけど?ついでに言うと、ドア開いてたし」
呆れたように大げさに肩をすくめてみせる。
「え〜」
「そう言われてもな」
「そ、それじゃ、聞かれてた?…うぅ」
下手な演奏が、とか恥ずかしいとか、そんなの今更言っても後の祭りだ。
「前よりはちゃんとうまくなってるよ」
慰めるようにそう言って、やわらかなその髪を指先でくしゃりとかきまぜる。
どうも香穂の髪に触るのが、最近癖になっているらしい。
「そ、そうかな?」
答えの代わりに、にこりと笑ってみせる。
そんな土浦につられるかのように彼女も嬉しそうに微笑んだ。
「で、何弾いてたんだ?」
「えっと、内緒」
胸元の楽譜は裏返しで、わざとタイトルを見れないようにしている。
そんなことしなくても…。
「内緒にしなくても、ホントはわかってるけどな」
「え?」
「『エリーゼのために』だろ?」
そう言ってくすりと土浦は笑った。
「…なんで」
「だから、ドア開いてたし、おまえ俺に気付いてないし」
聞こえてきたんだよ、と続ける。
「はぅ」
「なにか違うとか、呟いてたけど?わからないとこがあるのか?」
「え、いや、それは〜」
やめたと言っても、昔ピアノやってたらしいので楽譜は読めるはずだし。
初歩の方の曲だ。弾いたことはあるだろう。
一体、何がわからないのだろう?
視線を逸らして口ごもったままの彼女。
「俺には言えないことか?」
「いや、その、えーと、土浦君だから、言いたくないと言うか」
正直、その言葉にむっとした。
表情に出ていたんだろう。香穂が慌てて言い訳する。
「あ、あのねっ」
「なんだ?」
「なんか、違うの」
「なにがだ?」
おどおどとしたような彼女に、いらいらしたように聞き返す。
こんな態度じゃいけないと思いながらも。
「土浦君が弾く、『エリーゼのために』と」
「?」
彼女の言う意味がわからない。
怪訝そうな表情を浮かべて、まっすぐ見上げてくるその瞳を見つめた。
「そりゃ、私、土浦君ほどうまくないけど。ま、比べるのもおこがましいけど。弾いててなんか違うの。…なんて言えばいいんだろ?
私の好きな音は、出したい音は土浦君が出す音で。こうなんていうか、包み込んでくれるようなあったかい優しい感じの…」
--- そんな風に、思ってくれていたのか?
「香穂」
「な、なに?」
「それは香穂には無理だよ」
自分で思ったよりも優しい声が出た。
「なんで…」
続けようとした彼女の言葉を遮る。
「おんなじ音なんて出せない。俺には俺の、香穂には香穂の音があるんだ。おまえは知ってるかどうかわからないけど、
『エリーゼのために』はベートーヴェンが愛する女性に捧げた曲だ。俺はこの曲を弾くとき、おまえのことを想って弾いてるよ」
子供の頃は、何も考えてはいなかった。ただ譜面どおり、弾いていただけだった。
愛する人へ捧げた曲なんて言われても、よくわからなかった。
けれど、今は…。
--- おまえを、香穂を愛してる。
指先が知らず鍵盤へと伸びる。
とても、弾きたい気分だった。
「一曲、弾いてもいいか?」
そんな風に遠慮がちにお伺いを立てる。
香穂のために弾きたい気分だった。
「リクエストを聞いてくれるなら」
椅子から立ち上がって、彼女が嬉しそうに微笑む。
「「エリーゼのために」」
二人一緒に口にした言葉は綺麗にはもった。
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