知らない言葉


10年前両親を亡くしたあの事故。
あの時、一体何があったのかはよく覚えてはいない。気付くとただ一人、道路に投げ出されていた。
足に当たるアスファルトの冷たい感触、横転して燃え上がる車。
記憶にあるのは赤い炎と黒い煙、そして何かが焦げるようなそんな臭い。
今でも瞳を閉じるとその状況がはっきりと思い出される。脳裏に焼きついた記憶。
意識を失って再び目覚めた時には病院のベッドの上だった。

身寄りのないかわいそうな子供。
これは善意です、とばかりに大人たちは子供を引き取ろうと躍起になっていた。両親の遺した遺産と多額の保険金に目が眩んでいたから。
心から子供のことを考えてくれた人間は一人もいなかった。誰も彼もがいろんな手を使って子供の気を惹こうとする。
そんな汚い大人たちを前にして、子供はただ冷めた目で見つめていた。
結局、そんな自分が新しい家族となった人間に打ち解けられるはずもなく、親戚の間をたらい回しされるようになっていた。 
学校を転々としていたのもそのせいだ。


『おかえりなさい』


そんな優しい言葉を投げ掛けてくれる人間なんて俺にはいなかった。
両親との穏やかで優しい生活。あの事故ですべてを失くしてしまった。
だから最初、それにどう返していいのか戸惑った。学生寮の玄関で、情けなくもしばらく固まってしまった。

「どうしたの?」
投げ掛けられたその言葉に、なんでもないと首を横に振る。訝しげな表情に、面に作り笑いを浮かべた。作り笑いなら慣れている。

人間なんて信用してない。どうせ最後には裏切るんだ。あの人達みたいに、手のひら返して放り投げるんだ。
そう、思っていたから。

ここの寮の人間は皆が皆、誰かが帰ってくると「おかえり」と声を掛けてくる。微笑を浮かべて。それがまるで当たり前のように言うのだ。

「おかえりなさい」

けれど言い慣れていない「ただいま」の一言は、己の唇から滑り落ちることはなかった。ただ小さく頷いて、無言のまま足早にラウンジを通り抜ける。

どうしていいのかわからない。胸が苦しい。早くこの場所から遠ざかりたい。早く自分の部屋に帰らなければ。鼓動が自然に早くなる。

人と関わるのが昔からとても苦手だった。余計なことは誰とも話したくなどない。
一人でいる方が楽だった。

何も聞こえなければいい。知らないフリができるから。
何も見えなければいい。知らないフリができるから。
あたたかな言葉など要らない。優しい言葉など要らない。

そんなものは知らないままでいいんだ。
知らないままで。

片手でリモコンを操作してボリュームを上げた。ヘッドホンから聴こえてくる音楽で周りの雑音が聞こえなくなる。
隔絶された空間。頭の中を巡る音楽。世界にまるで一人でいるような、そんな感覚に少し安堵を覚えた。


--- 何も、知らなければいい。


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