笑っていて
溜まっていた生徒会の仕事を片付けて、美鶴が学園を後にした時にはもう辺りはすっかり暗くなっていた。
ふと見上げれば、上天に下弦の月が淡い光を放ち浮かんでいる。
次の満月は一体いつだったろうか、そんなことをつらつらと考えながら寮への家路を急ぐ。
月光館学園学生寮。
扉を開けると、楽しそうな笑い声が美鶴の耳に聞こえてくる。
なんだか最近、仲間達のこの声を聞くと安心する。自然と口元に笑みが零れるのだ。
声に惹かれるようにちらと視線を向けると、ソファに腰掛けている久世、その前には並んで立っている伊織と岳羽の姿が目に入る。
ただ、こちらからは反対になるため、美鶴には彼らが何をしているかまでは窺えない。
正面に見える久世の耳には珍しく、いつものヘッドホンがかけられていない。首からそっと垂らしてある。その手元には音楽雑誌が握られていた。
どうやらラウンジを騒がしくして原因は、伊織と岳羽の二人のようだ。
ふと小さく久世が笑った。
何が彼を笑わせたのだろう?
それに瞬間美鶴は目を奪われる。
いつもポーカーフェイスの彼が稀に見せる笑顔。それはとても綺麗で優しげな微笑だった。
「ちょっと今のどっち?久世君、今笑ったよね?」
「おい、理人。もちろん俺様だよな?」
口々に岳羽と伊織が掴みかかりそうな勢いで目の前の彼に尋ねる。
何に一生懸命になっているのやら。久世は可愛らしく小首を傾げて、不思議そうに目の前の二人を見上げている。
「おまえ達、さっきから一体何してるんだ?」
賑やかな声につられたのか、明彦が姿を見せる。
「あ、真田先輩だー」
「いえ、ちょっとにらめっこをね。はがくれのラーメンを賭けて」
ラーメンごときにそんなに一生懸命になれるものなのだろうか?
いつかは食べてみたいとは思うものの、美鶴はまだそれを口にしたことはない。
「あ、そうだ。もしよかったら先輩もやります?」
後輩の誘いに明彦が露骨に嫌そうな顔をしている。
「なんで俺がっ!」
「一緒にやりましょーよ」
「判定はこいつ。理人が笑ったら勝ちってことで」
「久世はなかなか笑わないだろう…って、だから、俺はやるなんて言ってな…」
「真田先輩、往生際が悪いですよーっ」
「そうですよ。一緒にやりましょう」
「…なんで俺がっ!」
「久世。なんだか楽しそうだな」
バカ騒ぎをしている3人の横をそっとすり抜けて美鶴は久世に声を掛けた。
「お帰りなさい、桐条先輩。…楽しそうに、見えますか?」
そう尋ねる久世の貌から先程の微笑みはいつのまにかすっと消えていて、それを美鶴は少し残念に思った。
「君はあまり笑わないから。さっきは笑っていた」
--- 楽しそう、に見えたのだ。一瞬でも。
「…そう、ですか」
「もう少し笑うといい。君の笑顔は綺麗だから」
ついそんな言葉が唇から滑り落ちた。別にこんなことを彼に言うつもりなどなかったのに…。
「え?」
「…あ、すまない。私は何を言っているんだろうな」
慌てて美鶴は謝った。
「いえ、ありがとうございます。今の、褒めてくれたんですよね?」
「…本当に、そう思ったから」
--- 笑っていてほしい、と。
「桐条先輩、実を言うと俺ね、ずっと笑い方なんて分からなくなってたんですよね」
まだ目の前では3人が騒いでいる。
そんな彼らをじっと見つめたまま、ぽつりと小さく久世が呟いた。
「久世?」
「両親が事故で死んでから俺は親戚の家を転々としていました。いろいろ嫌なこともありました。
でも笑ってなきゃいけなかったんです。他に助けてくれる人なんていなかったから。愛想笑いばっかしてたらわかんなくなっちゃったんです。
でもね、それって本当じゃないでしょ?だから、笑わなくなった。寮に入ればもうそんなことしなくてもいいし。…もうね、俺は心から笑えないと思ってました」
そっと瞳を閉じてそんな哀しい言葉を続けていく。
--- それが、彼が笑わない理由。笑えない理由。
「…そうか」
久世になんと言葉をかけていいかわからず、美鶴はただ相槌を打つ。
「だから先輩にそう言われてちょっと嬉しかった。俺でもまだ笑えるんだなって」
ゆっくりと開いた濃紺の瞳。真っ直ぐに見つめられて、美鶴は優しく彼に微笑みかける。
「ああ、もちろんだ。できれば私は君にはいつも笑っていてほしいと思う」
何を考えているのかわからないポーカーフェイスよりはその方が断然いい。
--- そして、できれば私は…。
「先輩、それってなんだかちょっと口説き文句みたいですよ?」
「えっ、いや、そんな…」
唐突に言われたそのセリフに美鶴はしどろもどろになる。
「なーんて、冗談ですよ」
「久世!」
「…でも、そう願ってくれるなら努力しますよ。桐条先輩にそんな風に思ってもらえるなら、ね」
そう言って久世は先程のあの綺麗な笑みを浮かべた。
--- そう、いつも笑っていて。君には笑っていてほしいんだ。
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