しあわせな夢
--- もう、君には、逢えないんだね。
ポロニアンモール。
かつて青い扉があった場所には何もなく、現在はただ灰色の壁があるだけ。
選ばれた人間にしか見えないと言われた『ベルベッドルーム』への入口。
そこは、まるで最初から何もなかったかのように、空虚な空間が広がっていた。
壁に両手をついて、流依は小さくため息を零す。
扉が見えないだけ、なんてことはない。
以前は青白く光っていた扉も何もそこにはなかった。
自分は夢を見ていたのかもしれない。
選ばれたなど、思い上がりもいい処だったのかもしれない。
ここにはもう何もない。
大好きなあの人へとたどり着く術を失ってしまったのだ。
いっそ、全部忘れてしまえたらいいのにね。
ポケットの中、指先でそっと触れて見る。
冷たい感触。それは何度か触れた彼の細く長い指先を思わせた。
握りしめた青く光る鍵だけが、ベルベッドルームでの出来事が夢ではなかったと告げていた。
「ほんと、君って…ひどい、よね」
苦笑と共にぽつりと唇から滑り落ちた言葉を聞く相手はもう、いない。
流依は壁を背にずるずるとその場にへたりこむ。
「もう、タイムリミット、なのに」
浅く呼吸を繰り返す。
日に日に体力が落ちている気がする。
寝ても寝ても、疲れが取れない。
寮から学校に行って、授業を受けて帰るだけでも大変なのに。
毎日、流依は無駄だと知りつつ、この場所に来ていた。
ただ彼にもう一度、逢いたかった。
逢えないとわかっていても、どうしても足がそこへと向いてしまうのだった。
こんなことをしても無駄だとわかっているのに。
理解ってるのに。
『流依さま』
瞳を閉じれば、彼の声が鮮やかに蘇る。
一緒にいろんなとこに行って、一緒に笑いあって、一緒に抱き合って…。
「テオ、一緒におでかけ、楽しかったね」
ああ、もう眠い。
眠くて眠くて仕方ない。
こんなところで寝てしまってはいけないと思うのに。
落ちた瞼を開けることができない。
「…流依さま。私も貴女と一緒の時間はとても有意義で楽しかったです」
呟きに返るはずのない声が聞こえる。
なんて都合のいい夢。
夢でもいいわ。私はあなたに逢いたかったの。
「ふふ、君はひどい人ね」
「そうですね。貴女にもう逢わないと告げたのに、こうして私はまた禁を破って」
大好きなテノールが近付いて、そっと髪を優しく撫でられる。
「君の顔を…見たいけど、ちょっと、無理みたい」
目が開かない。自分の意志で指先すら少しも動かせない。
ただできるのは、言葉を紡ぐことだけで。
ああ、なんてもったいないのかしら。
もう一度あなたの顔を見て、触れて抱きしめてみたいのに。
「…流依、さま」
指先がとられ、その胸にぐいと抱き寄せられる。
あたたかい、彼の体温。
「これが、たとえ夢でも、幸せ…だわ」
思いのまま、小さく呟く。
突然、ぽたりと流依の頬に滴が落ちてくる。
「…テオ?」
「流依さま。…私…は…」
くぐもった声が、流依の名を呼ぶ。
急速に意識が薄れていく。
彼の言葉の続きを聞きたいのに。
ねえ、テオ。
あなたは何を言おうとしたの?私に、何を言いたかったの?
緩やかな目覚め。
気付けば流依は自室のベッドの上で寝ていた。
「…夢、だよね」
なんて、幸せな夢だったのだろう。
もう一度君に逢えたのだから。逢いたかった君に逢えたのだから。
>Back